Published on 8月 25th, 2013 | by yasuyo
0「きものの歴史!縄文時代から江戸時代まで」
世界唯一のフォルムを持つ民族衣装「きもの」。
その歴史、さらには、「きもの」に凝縮される日本人の美意識、感性、それらを支える高い技術について知ることは
日本の文化を知ることにもなります。
早速、縄文時代までさかのぼってみましょう。
◆縄文・弥生時代
「ひも・織物文化黎明期」
麻の繊維をよった糸を編んだり平織りにした布の断片や、平織り状の跡があるこの当時の土器が、国内の広い範囲で発見されています。
「魏志倭人伝」の記す「男子は横幅衣、婦人は貫頭衣」は、この頃の庶民の衣服を伝えるものだともいわれています。
いっぽう、新嘗祭(にいなめさい)などの宮中、神宮、神社の祭祀で、絹、布、木綿などの織物が用いられたとの記載も残っており、
織物が人々の祈りやけがれを移す役割を担うことも多かったようです。
◆古墳・飛鳥・奈良時代
「中国の国家、文化の影響を受ける」
古墳時代の服装は、埴輪を参考にすることができます。
埴輪は当時の豪族たちの墳墓に立て並べられていたもの。
さまざまな身分の人物埴輪がありますが、服装は男女ともに上下にわかれたツーピースになっています。
えりは左前に着る詰えり形式のものが多く見られ、大陸の影響を受けたものと考えられています。
飛鳥・奈良時代になり、中国との交流が盛んになるにつれて、国家体制、文化は中国式になっていきます。
男女ともに貴族階級の服装は唐を模倣したものになり、7世紀初めの律令制度導入後は、衣服により格付けされるようになりました。
きものの着方は、719年(養老3年)に元正天皇が「右衽の令」を発したとの記録が残されており、この頃から右前に着るようになりました。
◆平安時代
「和服の原型が開花」
遣唐使の廃止やその後の唐の滅亡の影響で、日本的な文化が開花。
着る人の体の線にとらわれず、布地を直線に裁ち、縫い合わせる直線裁ちの今のきものの原型がつくられるようになりました。
十二単など同じ型の着物を重ねて着るという方法が定着するにつれて、色彩りの感性も発達。
色の組み合わせも、政治的階級や、季節を先取した色調などが強調され、日本独特の色の調和を尊ぶ伝統が生まれたのです。
これらの衣服のうち肌着として用いられた小袖が中衣化し、さらに庶民の上衣に発展します。
◆鎌倉・室町時代(安土・桃山時代)
「アグレッシブに華やかに」
武士階級の台頭により、公家や貴族らが栄華をつくした平安時代の流れが簡略化、女性には、小袖衣装が定着しました。
男性もまた、戦地に着ていく陣羽織など、華やかな色のきものを身につけるようになりました。
◆江戸時代
「きものスタイルの完成」
安定した徳川家の武家政権のものと、大名の間では、藩の制服とも言える裃が発達。
また、後に、経済を握るようになった商家の富裕化により、文様の意匠、配置がより大胆になっています。
現在のような帯幅、帯結びになったのもこの時代で、結び方、文様に多種多様な工夫が施されるようになりました。
さらに、使用生地、染色技術も発達します。
江戸時代には、染、織、着装などあらゆる面に磨きがかかり、きものスタイルが完成した時代だといえます。